才能の開花を阻むもの

私が日頃接している子供たちには、音楽の才能に恵まれ、将来を嘱望される逸材が多く含まれます。
こうした特別な能力を持った子供たちは、音楽の力に恵まれてはいても、自分の運を逃さずつかんだり、自己統制や自己啓蒙に優れている、すなわち、放っておいても自分で才能を開花させる力も併せ持っているとは限りません。

むしろ音楽に優れている分、どこかに不器用な一面もある場合が多いようですが、そんな「才能の芽」を見ると、私は何としてでも伸ばしてやりたくなります。

私と出会うことが幸か不幸かはその人次第ですが、こころざしさえきちんと持って接してくれれば、私は何一つ惜しむことはしない方針です。

さて、エレクトーンを学んでいる人は大勢いますが、その中で高いプロフェッショナル志向を持って続けている人は少数派です。これはエレクトーンのみならず、どんな分野の稽古事でもそうでしょう。

エレクトーンの場合、子供の頃から徹底してプロを目指す人は、極めて稀です。エレクトーンの演奏家として生計を立てることは不可能ではありませんが、他の楽器に比べて成功する確率はとても低いですし、成功したとしても世界中に別荘を持って自家用ジェット機で移動するような生活は夢のまた夢です。

経済的なことや社会的な地位は高望みしないにしても、安定して充実した生活を送ることもたやすくはない世界ですので、野球選手やポップスターに対するのと同様の憧れは、なかなか抱いてもらえません。

それでもエレクトーンが好きといって、たゆまぬ努力を重ねている子供たちがたくさんいますので、私はその子たちの将来のために、エレクトーンの地位向上に力を注いでいます。

エレクトーンの世界は、今ちょうどコンクールシーズン。私も全国各地で熱演の数々を聞いていますが、その中で「これはかえって才能の開花を阻害していないか」と思う場面に少なからず遭遇します。

エレクトーンには数々の音色や機能が備わっており、これらは使い方次第で音楽を彩るスパイスにもなり、時には毒にもなります。

子供たちがコンクールに出場するにあたり、選曲、編曲、データ作成、演奏までを単独で仕上げるのは稀で、多くは担当講師と共に「コーチと選手」のような関係を築き、共同作業で準備を進めます。

ステージでの演技に直接手を出すことはできませんが、その直前までとことん介入し、コンディションを整えて本番に臨ませるのも講師の役割です。

この際、講師が陥りやすいのが、「音楽の番人」の責任を放棄して、自分の弟子の都合に合わせて音楽を「改ざん」してしまうことです。
そもそも背伸びをしすぎた選曲が多いのも問題ですが、選んだからには真っ向から挑戦し、見事制覇するにしても玉砕されるにしても、真摯に向き合うべきです。

それを今の実力に合わせた解釈で作品の価値を貶め、畏れおおくも「自分らしさ」というエゴイズムまで刻み込むなど、プロを目指す子供たちにさせてはならないことです。

「今の私にはまだまだだった」と歴史を生き抜く作品の偉大さに打ちのめされても、「ようし、いつか必ず!」と奮起させることこそが、講師の務めではないでしょうか。

エレクトーンの場合、編曲作業が伴うため、安易な簡略化に陥りやすく、本来そこに宿っていた曲の魂が抜け落ちてしまうケースが後を絶ちません。

また、演奏能力や表現能力の不足を機能で補うことも可能なため、腕と技を磨く意欲を低下させてしまいがちです。「指に力がない子供でも、力強い音が出るように」といった工夫は、自己満足以外の何ものでもなく、上達を妨げるだけです。

生徒本位ではなく、音楽を中心にすえ、音楽が要求するものに忠実になりましょう。そして、その音楽に生徒がどうやって近寄っていけるか、それを手助けしてやって下さい。決して音楽を生徒に歩み寄らせることのないようお願いします。

また、子供の才能を制限しているもののひとつが親の認識です。
「我が子は天才」とは、謙遜もあってなかなか認めがたいかもしれませんが、「我が子は平凡」と決めてしまったら、せっかく潜んでいる才能は、芽吹くことができません。

そこで有頂天になるのはどうかと思いますが、親の認識次第で、お子さんの開花が大きく変わってくることは事実です。やってやれることに限度があるにしても、足を引っ張ることだけはないようにお願いします。