何かものごとに無心になって打ち込んだ時、それが終わった途端、ガクッと力が抜けて放心状態になってしまう。そんな経験をお持ちの方は少なくないことでしょう。
私の場合、日々の演奏活動の中で、しばしばこうした状態に陥ります。
そして、最も「重症」なのが、年に一度のリサイタルを終えた夜です。
リサイタルの準備は毎回およそ半年前からスタートします。選曲、編曲、演奏の稽古。たったそれだけなのですが、それぞれにいくら時間を注いでも、これでよしということはありません。
実際、稽古が本格化するのは、本番まで2ヶ月を切ってから。他の演奏会のことも平行して準備しなければならないので、本当の意味でリサイタルに集中できる期間はごくわずかです。
ところが、「お願いだから集中させて」と泣いて懇願したいような時にこそ、容赦なく邪魔が入ります。
たとえばそれは1本の電話だったり、普通の状態ならどうということのない類のことがらでも、稽古中という特殊なシチュエーションでは、このまま携帯電話を踏みつぶしたくなるほど、激しい感情に襲われます。そして、ふたたび集中力を取り戻すには、かなりの時間が掛かってしまいます。
稽古も、24時間ずっと続けることはできないので、どこかで中断しなければなりません。その時も、「あと10秒だけ」「あと5秒だけ」と、それはもうしがみつくようにして楽器に向かっています。
体力的にも精神的にも追いつめられたまま迎えるリサイタル当日。後援会の皆さん、門下一同、スタッフの皆さん、そして満場のお客様に囲まれ、私には最高の舞台が用意されます。
なのに、私の演奏のひどいことといったら!
その原因を自分なりに分析してみました。プログラムには、私にとっては初めて人前で演奏する曲が多く並びますので、演奏に際しての体の使い方に慣れていないことで、必要以上に慎重に演奏することになり、それが足を引っ張っているようです。
演奏しながら、どんどん自己嫌悪に陥っていきますが、お客様から伝わってくる力強いパワーに支えられているので、決して気が抜けたり、なげやりになることはなく、最後の一音まで、私なりに誠実に演奏しているつもりです。
過去4回のリサイタルでは、たとえ演奏に傷が多くても、私がこの舞台に注いだ情熱やチャレンジ精神は、まっすぐにお客様に届いたという実感が得られ、リサイタルとしてはまずまずの成功を重ねてきたと考えています。
それでも、リサイタルを終え、会場を後にして、ひとりになった時、私はいつもかつて感じたこともない恐怖に包まれたかと思えば、次の瞬間には果てしない喪失感に支配されています。
いったい私はこの努力の中で、何を得たというのだろう。いや、私は何かを得ようとしているわけではなく、何かを伝えようとしているのではないか。では、いったい何を表現できたというのだろう。
こんなに疲れ果てて、持てる限りの時間と力を注いで取り組んでも、この程度。これ以上努力しろと言われても不可能なくらい、私は全力を使い果たしたけれど、結局、私には価値あるものを生み出す力なんてないのだ。もう私には何も残っていない・・・
これが、リサイタル直後の私の本音です。
最初のうちは、これが数日続きました。でも、最近は数時間で抜けるようになりました。この「やり尽くした」ところから、また新しいものが芽吹き、すぐに青々と茂ることを知りましたから。そして、新しいものは、より強靭で生命力にあふれています。
今年もリサイタルまで2ヶ月あまりとなりました。そろそろ地獄の試練に出発しますが、今年もあるものすべてを燃やし尽くしてみようと思います。