私にとってかけがえのないものはたくさんありますが、その中でも最上位の部類に入るのが時間。時間を無駄にするほど気分の悪いことはなく、自分自身の時間も、また私に関わっている人たちの時間も、同等に大切に考えるようにしています。
次いで譲れないのが、静寂。
特に大都会で生活をしていると、街中にノイズが溢れ、常に不快な環境に身を置かざるを得ないところに加えて、工事や道路を走る車の音など、不意に襲ってくる騒音も後を絶ちません。
でも、こうした無機質な騒音は、出どころがわかれば意外と我慢できるもの。ところが人間が意図的に発する音の場合、そうはいきません。
特に気になるのは声です。どこからともなく聞こえてくる人の声。何を話しているのか内容まではわからなくても、何か神経に障ります。
きっと、人の声には何らかの念が込められているために、発している人の思いが伝達されることで、メッセージ的なキャッチをしてしまうからでしょう。
たとえば、赤ちゃんの泣き声。うるさいというよりは、どうしたのかなと気になって仕方がないために、気が散ってしまいます。
子どものはしゃぐ声と、グループで集まって盛り上がっている大人のハイテンションは、何となく同じような作用があり、私の脳内で「何かが起こっている」というホルモン信号を誘発し、危機感を煽ります。
同様な作用があるのが、隣室や上階で人が発する足音や不意な騒音。工事の音に比べれば音色としては穏やかですが、断続的であることに加え、主に低音域で迫ってくるために、緊迫感が高まってしまいます。
もう、おわかりでしょう。私は、あらゆる音を、単なる音波としては聞いていないのです。すべてが音楽であるかのようなとらえ方をしているため、どのよな音でも感情の領域に大きな作用をもたらします。
そのいい例が、街中に溢れるBGM。穏やかな曲ならまだしも、激しい曲や情念のこもった演奏に出会うと、私の神経回路はそこに釘付けになってしまいます。
最近はオシャレだからという理由で、ホテルのロビーやレストランでもジャズのBGMがしばしば使われるようになりました。
例えば、爽やかに目覚めて、一番乗りで朝食に出向いた時、店の中で激しいジャズのアドリブがガンガン流れているなんて、私には耐えがたいのですが、他の人たちは平然としてて、私はそれに唖然としてしまったことが幾度もあります。
ジャズがきらいなわけではありません。むしろ大好きです。
名演と呼ばれるものであればあるほど、それは人の心をわしづかみにして離しません。ライブ収録であれば、プレイヤーたちは目の前の観客を熱狂させるために演奏しているのですから、当然のことです。
BGMとして使われているとはいえ、実際にその演奏をした人たちが、自分たちの演奏にほぼ無関心の人々を見たら、少なからず落胆するかもしれません。
私はレストランでこのような扇情的なBGMに出くわすと、音量を絞ってもらうか、別のものに替えてもらうか、それもできないという場合は、食事をせずに店を後にします。我慢して食べても、結局味わった気がしないからです。
私が高級ホテルや交通の特別席を利用する第一目的は、贅沢のためではなく、静寂を手に入れるためであり、その対価として十分な価値があると考えています。
心を掻き乱すことのない空間に身を置き、気持ちを十分にクールダウンすることで、次第に霧が晴れるようにして、奏でるべき音が見えてきます。
本番を控えた私の楽屋もまた、静謐な空間を保つよう、私だけでなくスタッフ全員が心がけてくれています。
まるで禅の修行のような引き締まった空気の中で身だしなみを整えた後に、期待と熱気の渦巻くコンサートホールのステージへと足を踏み出す、その瞬間に境界線を越える感覚が、私は大好きです。