今回、北京での演奏は、ひとつの試練でもありました。
まず、演奏環境が特殊だったこと。
演奏会であれば音楽が主ですが、今回のイベントの主は別にあって、音楽は余興に過ぎません。
通常、このような条件下での演奏は引き受けませんが、以前からやってみたいと思っていたことができそうだったので、北京に出向くことにしました。
お客様は、別の目的で招かれた、美意識がきわめて高く、流行に敏感な人々。
何のアナウンスもなく、やおら演奏が始まる。
見知らぬ外国人が、何やら不思議な楽器で、ファッショナブルではない音楽作品を奏でているという図。
つまり先入観もない、ありがたみを持たせる饒舌な紹介もない、まったくもってニュートラルな環境で、エレクトーン演奏がどのように受け止められるのか、それを確かめたかったのです。
割れんばかりの拍手に迎えられることに慣れきっていると、無関心で冷ややかな視線を向けられるだけで、うろたえてしまいます。
ふだん、お客様にどれだけ力をいただいているかが、身にしみる瞬間でした。
この期待感ゼロの環境で弾き始めるのは、まったく気分のいいものではありません。
とにかく音楽にフォーカスして、いつもと同じように、この場を生きた音でいっぱいにすること。
何か心地よい香りが、どこからともなく漂ってきたような雰囲気になればとイメージしつつ弾き続けたのですが、結局、お客様が100パーセントの関心をこちらに向けてくれることはありませんでした。
ちょっとがっかりしながら演奏を終えましたが、あとから幾人かに声を掛けられ、意外にも注意深く耳を傾けてくれていたことを知りました。
ニューヨークから取材に来たという若いエディターからは、「繊細で情感に溢れる音楽に、いつのまにか心を奪われた」と。
こうして、またひとり、音楽で通じ合うことができた。
イメージやキャリアに頼らずとも、私にできることはたくさんある。
それは大きな発見でした。