ここ数日、なんとなく調子が上がりません。体調というより気力の問題であることはわかっているのですが、わけもなく黄昏たりして、我ながら不気味です。
そろそろ体力も限界なのでしょうか。せっかく音楽的にも充実してきた矢先なのに、もう下降線なのでしょうか。25年前の私には、25年後にこんな気分に直面するなんて、想像もできませんでした。
先週末に開催された2回の演奏会では、久しぶりに弾く歓びを全身で感じながら演奏することができ、また、終演後の交流会では、日頃ご指導に当たっていらっしゃる先生方と、充実した会話を楽しむことができ、私の気分も一気に活気づきました。
その直後には3人の若者にスーパーレッスン。今は追い込み時期ではないので、私にしては穏やかな稽古現場でしたが、私が消耗した精神力は、予想以上に大きく、深かったように思います。
私は演奏会でもレッスンでも、持てるものを惜しみなく注ぐというのがモットーです。いわゆる出し惜しみや「この程度」という作為的な加減は好みません。
でも、これを実践し続けるには、尽きない泉が必要です。いくら消耗しても、地の底から突き上げるマグマのように、アイデアや気力、そして生きる歓びが、後から後から湧いてくるようでなければ、たちまち私は干からびてしまうでしょう。
そのマグマの役割を果たしているものは何か。演奏会であれば、それは聞き手から放たれるパワーであり、自分自身の稽古であれば、それは作品から溢れるエネルギーであり、人に稽古を付ける時であれば、それは受け手のゆるぎない信念です。
聞き手に期待されること、作品から求められること、受講生から信頼されること、それらに応えたいと張り切ることで、私は自分を燃えたぎらせています。
そして、これらに呼応できるだけの体力。健康を保つことの大切さは、何も私のような生活をしている人に限らず、生きる者すべてにとって最重要事項です。
私の音楽生活が充実してくるに連れ、自らの健康もまた増大してきました。かつては不健康で体力にはまったく自信が持てなかったのですが、今ではそんな頃のことが信じられないくらいです。
ただ、不健康な時代から私はタフでした。タフでなかったら、不健康時代にとっくに命を落としていたでしょう。
タフさを武器に生き延び、遂には健康体を手に入れ、今が盛りという時になって、弱音を吐くのもみっともないとは思いますが、これから先、どれだけの期間パワフル・マキシマムでいられるのか、ちょっと不安になっています。
そう思うと、今の時期に私と出会えた受講生たちはラッキーかもしれません。これが10年後、仮に私が10年の経験を重ねて伝えるべきものを多く携えたとしても、伝える力が半減したのでは、かえってマイナスです。
私の稽古は、脇に構えて「ああ弾け、こう弾け」と理屈を並べ立てるものとは違います。マラソンに例えるなら、走者に並走し続けるだけでなく、常にその一歩先を行き、後押しではなく、牽引役をするのです。それには自分自身が勝者であり続けなければなりません。
果たして、いつまで先を走ってやれるものか。そんな不安を感じながらスタートした今週ですが、こうした悩みをベースに、今年一年の体力配分やモチベーションの保ち方を検討する上では、必要な問い掛けであったような気がします。
浮かれた希望ばかりでは、思わぬ落とし穴に泣くことになります。充実した日々であればこそ、慎重さとともに、先の変化を見越したプランが必要なのかもしれません。
ともあれ、私の生命力の源は、音楽。どんな苦しみも音楽が癒してくれます。素晴らしい希望や歓びは、音楽が一層彩ってくれます。そして若者たちの純粋でたくましいエネルギーと交わることで、私の使い古した壊れかけのエンジンも、ちょっぴり若返るような気がします。