かつては毎週のように共演させてもらっていたソプラノ歌手のサイ・イエングアンさん。ここ数年はご縁がなく、最後にご一緒したのは2012年2月のオペラハイライトでした。サイさんのソロのお供ということで言えば、2011年9月以来。久しぶりの共演に心躍ると同時に、かなり不安な心境で会場のある新潟へと向かいました。
一番の不安は、リサイタルを終えた直後の本番だったことです。この嬉しいお役目をいただいたのは、もうすでにリサイタルの準備一色になってからのこと。リサイタル終演までは他のことに一切手をつけられないので、その1週間後は厳しいと思い、可能であれば日程の調整をと申し出ましたが、サイさんのスケジュールと会場の都合上、この日しかないということで、リスクを承知でお引き受けしました。
やると言ったからにはやるしかありませんが、熱意だけでいい演奏が実現するほど甘くもありません。でも、サイさんの方がリサイタルに気を遣ってくれ、早めにプログラムを決め、しかもかつて共演したことのある作品を中心にチョイスしてくれました。サイさんとはまったく初めてという作品は9曲中4曲。これまで何度も聞いていただいているお客様にも、じゅうぶんな新鮮さを感じていただきながら、名コンビならではの安定したアンサンブルをお届けできる、いいプログラムが決まりました。
新曲が少ないのはおおいに助かります。その分、経験のある作品を練る時間に充てられるので、質を上げることもできます。でも、リサイタル後は、ただでさえ物理的に時間が足りないのに、数日間は心身ともに限界で、頭も体も運転見合わせ状態。結局、4日間で完成させなければならないまでに追い込まれてしまいました。
大丈夫、新しいのは4曲だけだ。そう言い聞かせて楽器に向かいましたが、すでに経験済みの作品も、エレクトーンのモデルが変わっているため、満足する音が出ませんし、かつて作った楽譜に物足りなさもありました。そのまま弾いてもサイさんの魅力を低下させることはないと思いながらも、やっぱり欲が出て、気がつけば全曲大工事という路線に。
この大工事はあんがいスムーズに終わりました。演奏も以前の経験が今なお体に染み込んでいます。ひとりで稽古していても、サイさんとの数々のステージが思い出され、つくずくいい経験をさせてもらってきたなぁと感じ入りました。新しい曲も、勢いに乗って順調に仕上がっていき、まあいい感じになったのですが、実際に合わせた時にいい感じかどうかは、まったくわかりません。サイさんがどう出てこようとも、完全にキャッチできるまでに磨いておくべきですが、それには時間が足りず、予測と賭けに打って出ることに。これが大きな不安の原因です。
さらに恐ろしいのは、リハーサルが当日限り、開場の2時間前からのみという点。そこまで演奏方針が決められないのは怖いです。サイさんは「大丈夫よ、ちゃんと神田さんに合わせますから」と言いますが、私は「よろしく」と答えながらも『それはないな』と心でセルフツイート。
もうひとつ青くなるようなことに気づいたのが、公演前夜。今回、演奏プログラムを決めた際、どの曲もすでに楽譜を持っていたので、重ねてもらうことはしませんでした。もちろん、曲のサイズや調性は確認しましたが、前奏や間奏の指示を聞かず、一般的にこうだろうという慣例の中、何の疑いもなく用意していて、ふとサイさんはこのスタイルでいいのかなと心配に。エレクトーンの場合、プログラムデータチェンジの都合上、臨機応変に対応しにくい側面がありますが、あえて当日でも自由が利くようにデータを整理しました。
そんな不確定要素満載で現地へ。一刻も早くリハーサルをしたい私。でも、サイさんは、まずはランチにしましょうと。ひとりで楽器に向かっても解決しませんから、私もランチに同席。ひとしきりおしゃべりに花が咲きます。じゃあ、そろそろやりましょうかとサイさんが腰を上げ、私は散歩時間になった犬のように活気付いて会場へ。
プログラム順に合わせていきますが、私は構えすぎて柔軟性に欠けているし、焦りがつまらないミスを誘発します。それでも、サイさんの呼吸を読み取ってインプットすることには抜かりありません。新しい曲は、用意した前奏が却下されたり、想定していたテンポと大きく異なっていたり、さあ困ったなということも次々出てきますが、ここが腕の見せ所、即座に対応していきます。
ひと通り合わせて、サイさんは「じゃ、よろしくね。コーヒー飲み行かない?」と。ここで「いいですね、行きましょ」と私が応じたら、本番メチャクチャなんだけど。「後から行きます」と言って、大急ぎで手直しと確認を済ませました。あとは、本番に賭けます。ディナーショーなので、ステージ開始まではじゅうぶんな空き時間があります。いつもの私には長すぎる時間ですが、今回ばかりは頭の整理に必要でした。
予定通りにスタートしたショータイム。もう本番になったらあとは思い切り弾くだけです。懐かしい思い出がよみがえってきて、なんとも言えない幸せな気分に浸りながら演奏できました。ちょっとハプニングがあっても、サイさんとは無言の会話が成立しますので、ハプニングがむしろ熱を高める効果になったりして、とてもいいステージでした。きっとお客様も大満足だったことでしょう。
今回はあえてエレクトーンソロを演奏せず、伴奏役に徹しました。以前の私なら、ソロなしでは満足できなかったかもしれませんが、脇役での光り方みたいたいなものも、少しわかって来たような気がします。終演後、お客様を見送ってからは、サイさんといろいろ話しをしました。音楽家として大きなヒントや刺激をもらい、とても有意義なひとときでした。
ある意味、心臓に悪いチャレンジですが、サイさんも私の音楽を信頼してくれるからこそ、妥協のない要求を投げかけてくれるのだと思います。直面するのは本当にたいへんですが、これが私を磨き強くしてくれているのです。
さあ、次の無理難題は4月9日の渋谷です。これから吐き気がするほどの課題と向き合っていきます。でも、本当にクリアできるのでしょうか。上野で憔悴し、新潟で疲弊し、このボロボロの心身をリカバリーする余裕もなく、次の地獄へ直行です。このまま一生地獄暮らしでしょうか。地獄のことなら、何でも聞いてください。