韓国第九を終えて

海外での演奏会は不確定要素や変更が多く、いつも不安やストレスとの闘いです。今回の韓国も相当の覚悟を決めて出かけたのですが、現地の努力と柔軟さに支えられ、ほとんど心配することがなく、とてもスムーズな公演になりました。

今回の公演は9月3日の一回のみでしたが、リハーサルと交流会を含めて5日間の日程が組まれました。到着したのは9月1日。釜山金海空港のゲートを出るなり、主催であるクンドゥル民族芸術団の熱烈な歓迎を受け、濃密な5日間がスタート。快適なバスに乗り込み、会場のある昌原(チャンウォン)まで1時間ほど。ホテルに荷物を置き、早速会場へと向かいます。

会場ではステージの仕込みが行われています。作業はすべてクンドゥルの団員たちがするのですが、役者もスタッフもみな家族のように協力しながら、楽しんで進めているのが印象的。公演を目前に控えた緊張感もあるにはありますが、それより和やかな雰囲気の方が勝っていて、何かお祝い事の準備をしているような感じです。

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私の最初の務めは指揮者との顔合わせ。今回指揮をするのは、ここ昌原で多数の合唱団を率いる実力派の先生。事前にプロフィールは見ていましたが、人柄まではわかりません。指揮者との相性は安心して演奏できるかどうかの決め手ですのでとても気になるところですが、初対面の印象は真面目で穏やかそうです。最初は通訳を介して挨拶を交わし、その後は英語で直接コミュニケーションを取ります。この時、まだ本番で使用するエレクトーンが到着していなかったので、仮に用意してもらった旧式で小さなエレクトーンで合わせをすることに。エレクトーンを指揮するのは初めてとのことで、お互いに一番緊張する瞬間ですが、いざ始めてみると、途中で止まることもなく、最初から最後まで通すことができたので、これで大きな不安は解決です。あとは細かいところを確認すれば大丈夫。2時間の予定だった打ち合わせは、30分で終わりました。

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翌2日は、朝一番にエレクトーンの搬入に立ち合い、それから夕方までひとり稽古と音響合わせ。この音響こそが最大の心配ごとです。エレクトーンを知らない、クラシック音楽を知らないというエンジニアに、理想の音を理解してもらうのは非常に難しく、いつもたいへん苦労します。また、言葉の壁や、現地の人の好みなどもあって、繊細なところまで思い通りに作り込むのは、まず不可能と考えておかなければなりません。

ところがびっくり。とりあえずという気持ちで弾き始めてみたところ、なんとも気分がいいではありませんか。リクエストする前の段階から、ほぼこれでOKという状態が得られたのは、これが初めてです。何かできることはありませんか?モニターは大丈夫ですか?と細かく確認してくれるエンジニアたちに、いくつか調整を頼んで、静かなホールでひとり気持ちよく弾き続けていました。これも本番と同じくらい幸せな時間です。

行き届いた音響の中で、ただひとつ私が譲ったのは、全体の音量感のことでした。今回の公演は、最初に民族芸術の舞台があり、次いでエレクトーンソロ、第九という構成です。民族芸術では打楽器の大合奏もあり、かなりの迫力と体感的音量なので、その後に通常のクラシックの音量にしたのでは、相対的に打ち沈んで聞こえてしまいます。全体のバランスを考えて、いつもより大きな音で弾くことになりました。

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日本から参加の合唱団一行はこの日の午後に昌原へと到着。夕方からはいよいよ全体のリハーサルです。日韓の合唱団は総勢130人。今回初めて第九にチャレンジするという人から、もう40年も歌い続けているという人まで、実にさまざま。これぞ市民合唱団です。指揮者も思い切ったもので、登壇するなり合わせをスタート。初めての大合奏に興奮した様子の歌声が背中にびりびりと響いてきます。テンポはいささか駆け足気味になり、あわやずれそうになることもありましたが、それがどうこうよりも嵐のようなエネルギーに圧倒されました。並びの段取りなどもあって、合わせの時間はそれほど取れず、結局2度通してリハーサル終了。すでに夜10時近い時間でした。

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本番の朝。私はいち早く会場入りし、自分の稽古を重ねます。韓国へ出発する当日の朝に大胆な改変をした部分があり、そこを中心に何度も繰り返し弾いて精度を上げます。これまで10年弾いて体に染みついたものを変更するのは、新しいものを習得するより困難ですが、これにより演奏効果が格段に上がるので、何とかクリアしたいところです。午後になり、合唱団も集まりました。最終のリハーサルを行い、あとは開演を待つばかり。開演が近づくと、いつも陽気なクンドゥルのメンバーも真剣な表情に。いよいよ開演です。

その本番を、私は舞台袖で見守ります。袖からステージの全体は見えませんが、舞台裏の様子がわかるので、公演の全体像を感じることができます。舞台で繰り広げられるのは、笑いあり涙ありの人情劇。そこに韓国の伝統的文化の数々が盛り込まれ、言葉がわからなくても、心の底から笑って楽しめる内容です。それに加え、楽器や舞踏などのシーンも多く、役者たちの多才さに脱帽。そして、観客を楽しませようという純粋な心が満ち溢れていて、なんともいえないあたたかさです。舞台袖では、次々展開するシーンに合わせて、道具や衣装などが手際よく用意されたり片づけられていき、散らかったり乱れることなど一瞬もありません。最高のチームワークです。

彼らの完成度の高い舞台を見ていたら、次が自分の出番であることが恐ろしくなってきました。これほどお客様を幸せにした後に、何ができるというのだろう。もう何もいらないではないか。それも、私たったひとりで。

カーテンコールを終え、役者たちが袖に戻ってきます。幕が下りきると、今まで舞台を務めていた役者たちは衣装のまま、次のステージの準備をしてくれました。まだ汗だくで息も整わないのに。エレクトーンを動かし合唱のひな壇を組でいく姿を見ていたら、それが私の勇気になりました。

いつものように舞台へ進み、いつもより少し長い礼をして、エレクトーンに向かいました。これが私にとって韓国で初めてのソロ演奏です。韓国でもエレクトーンは普及していますが、日本ほどではありません。日本以上に本格的なクラシック音楽演奏への理解は浅く、お客様のほぼ全員がエレクトーンを知りません。そんなお客様が今回初めて耳にするのが、ベートーヴェンの運命。かの有名なジャジャジャーンに、どんな反応をしてくれるのでしょう。

3時間鍵盤を触れなかったあとでいきなりのベートーヴェンは極めてリスクが高いので、完璧というわけにはいきませんでした。それどころか、細かい傷の目立つ演奏だったように記憶しています。にもかかわらず、お客様は食い入るように舞台に集中し、息を呑んで演奏を見守ってくれました。それはまさにクラシックコンサートの空気感です。ついさっきまで腹の底から笑っていた皆さんが、今度は音楽に浸っている。身震いするような気分になりました。

3曲のソロを終えると、割れんばかりの拍手に包まれました。横目に入る舞台袖では、まだ衣装のままのクンドゥルメンバーたちが見守ってくれています。これがひとりの演奏だなんて言えません。たくさんの人に助けられ、支えられてのシンフォニーです。

続いて第九。合唱団は私のソロの間に、幕の後ろに整列しています。ソリストに続いて私も入場。指揮者が登場し、いよいよ演奏開始です。おっと、私の譜面台に照明が来ていません。指揮者にも来ていないらしく、譜面を広げるしぐさをして不都合を知らせようとしています。数秒待ちましたが変化がないので、指揮者も私も覚悟を決めました。互いに「しゃぁないね」という表情を浮かべ合い、次の瞬間には演奏の構えに。リハーサルの時はおとなしい印象だった指揮者が、本番では大胆でダイナミックに変貌しました。あちらはあちらで同じように思っているかもしれませんけれど。

ソリストも気合いたっぷり。真剣さが伝わってきます。そして合唱団からは、その場に立って歌っていることの歓びが、幾千の矢になって放たれてきます。それは私の背中を射抜き、そのまま客席へと突き進んでいきました。凄まじいパワーです。

演奏の質という面でいえば、私自身が掲げた目標には及びませんでした。体力や集中力の維持に更なる工夫が必要です。でも、トータルで見れば、これはまさしく本物の第九でした。日韓の市民が協力して奏でたひとつの響きを、私はいつまでも忘れません。

こうして演奏会を振り返ってみれば、すべてが順調に進んだかのように見えますが、主催のクンドゥルの皆さんには、相当の苦労があったはずです。民族芸術団がなぜベートーヴェンやらエレクトーンを?という疑問にさらされ、お客様を集めるのも容易でなかったでしょう。自分たちの舞台の準備をしながら、日本から60名もの人を受け入れる段取りをするのもたいへんです。なのに、そんな苦労はおくびにもださず、いつも笑顔で精いっぱいの親切を寄せてくれるクンドゥルの人たちには、ただただ感服します。

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終演後は合唱団の交流会があり、おおいに盛り上がりました。翌日は山清へ観光した後、クンドゥルの本拠地を訪ね、クンドゥルとの交流会を。歌あり、打楽器体験ありの楽しいひとときでした。帰国する時も、クンドゥル代表が空港まで見送りに。最後の瞬間まで、もてなしの心が伝わってくる韓国ツアーでした。これまでいろいろな国を訪れ、無数の思い出がありますが、その中でその場を立ち去りがたかった旅を三つあげるとすれば、今回の韓国訪問もそのひとつに数えられます。人のやさしさと音楽の力をひしひしと感じた5日間でした。

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