桜なき吉野を訪ねて

吉野といえば山一面を覆い尽くす満開の桜。一度はこの目で見てみたいと願いつつ、まだ叶えられずにいます。桜の時期でない吉野はどんなだろう。そんな興味といくつかの国宝を目当てに、夏の吉野を訪ねました。

近鉄阿倍野橋駅から乗りこんだ特急「さくらライナー」はガラガラ。前日に満席の「こうや号」に乗ったばかりなので、あまりの差に驚きました。もしや桜のない吉野は、湯の枯れた草津のようなものなのか、と不安になります。

少ない乗客も途中駅でほとんど下り、吉野駅まで乗ったのはほんの数人。夏休みの日曜日だというのに・・・。しかも、ぽつぽつと雨が降って来ました。

まあ、せっかく来たのですから、気を取り直してマイペースで楽しみましょう。人の少なさは、まさに私好みなのですから。

まずは吉野山への玄関口となる千本口駅から吉野大峯ケーブル自動車が運営するロープウェイに乗ります。現存する日本最古のロープウェイだとか。レトロな設備は趣きに溢れています。

このロープウェイ駅で最初のサプライズ。係員の方々が、ひとりの例外もなく極めて礼儀正しく、素晴らしいサービス精神を発揮しているのです。羽田空港5番のりばの彼に、負けるとも劣らず。深々と頭を下げて発車を見守る姿にジーンときました。

吉野山駅まではわずか3分で到着。吉野をディープに楽しむなら、バスを利用するといいようですが、今回は時間に余裕がなく、ほんの「入口」付近だけを散策するつもりです。

目指すのは金峯山寺。通りを進むと黒く塗られたその名も黒門が目に入ります。吉野山へ行く人は、皆この門をくぐります。

銅で出来た鳥居を過ぎると、その先に国宝・仁王門が見えて来ます。階段の上に堂々とそびえる仁王門の迫力。小雨の中でも、周囲の空気はピンと張りつめた感じがしました。

仁王門の先には、本堂である国宝・蔵王堂があります。高さは34メートルもあり、東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築だそうです。

しっとりと降る雨に乗って、どこからともなく修験道のホラ貝が聞こえて来ます。稽古を始めたばかりのホルンのようでもあり、海洋哺乳類の声のようでもあり、先週の松本淳一リサイタルで聞いた「脳内リバーブ」という曲のようでもあり・・・。

さて、次は吉水神社へ。こちらはまるで高級料亭旅館を思わせる上品な佇まいです。緑深い庭園や桧皮葺き屋根のある風景は一枚の絵の美しさ。

それと同じくらい心奪われたのは、吉水神社駐車場から見る一目千本桜の景色。今は葉が茂るばかりの桜ですが、目を閉じればそれらが桜色に染まった風景が心に浮かびます。

4月のシーズンなら、人波の向こうに暫時実物を見ることができるのかもしれませんが、ロープウェイに1時間並んで、元旦の明治神宮のような賑わいを耐えるほどの自信はありませんので、とりあえずこれで満足することにします。

さて、そろそろ下山の時間が近づいてきました。軽く腹ごしらえでもしようかと、建ち並ぶ食堂を品定めしていたら、気になる店を発見。

それは中井春風堂という店。葛の土産物の他、食堂もあって、峰々を眺めながら食事を楽しめるようですが、それより葛を食べてみたくなったのです。

葛切りと葛もちを注文すると、作る過程を見ることができるというので、それに飛びきました。作業場の前に招かれ、見事な手さばきを見ながら、葛についての説明を聞きます。

材料は吉野本葛と水だけ。シンプルなだけにとても芸術的で、ちょっとしたイリュージョンのようでもあります。ミルクのような状態から、みるみるうちに透明に。

熱を加えてから10分が葛の命だとか。作り立てのみを提供するため、持ち帰り不可でイートインのみと、徹底しています。

この職人さん、葛の扱い方にも、深い愛情と思い入れが滲んでいました。その上、たいへんセンスのいい人だと思います。

葛もちはきな粉で、葛切りは黒蜜で味わいますが、まずは何も付けずに食べてみました。わずかに感じる独特の苦みが、本物の葛の味。なめらかな舌触りと、何ともいえない弾力。またこの葛のためだけにでも訪ねて来たいほどです。

なんと、帰る頃になって晴れて来ました。でもいいんです、雨は大好きですから。

吉野駅での列車待ち時間を使って、久しぶりのソフトクリーム。さくら&山栗という珍しい取り合わせです。

わずか2時間弱の吉野散歩。誰にもペースを乱されることなく、心地よいものや極みに囲まれながらの美しい旅でした。