エレクトーンとともに

エレクトーンとともにステージに立ち続けて、ずいぶんと長い時間が経ちました。いつも叩いたり蹴ったり、ひどい扱いをしているにもかかわらず、文句も言わず、壊れもせず、私の心を音にしてくれる素晴らしいパートナー。改めてその存在に感謝しています。

まるでオーケストラ。エレクトーンでのクラシック演奏は、よくそんなふうに表現されます。三段の鍵盤に楽器の音を割り当てたり混ぜたりして、その楽器らしいニュアンスで弾くことで、いかにオーケストラのようなニュアンスに近づける。それが目標だと思われることもしばしばです。

でも、オーケストラのよさはオーケストラでしか表現できません。エレクトーンの場合、ある程度オーケストラに近い音が出るために、どうしても比較をされてしまいますが、オーケストラの音こそが目標ならば、私はとうの昔にエレクトーンを捨てて、指揮の勉強に没頭したでしょう。

エレクトーンの真の醍醐味は、限定的な環境下での最大限の工夫にあります。もしエレクトーンが万能になったら、私にとっては魅力半減です。完ぺきな再現が決してできないところが面白いのです。

だからこそ、試行錯誤があり、スコアとより密に対峙しながら深い解釈に至ることができます。

たとえば、オーケストラ作品の中にも、木管楽器で鳥の鳴き声を模したり、弦楽器でさざめく波音を表現したりすることがあります。それを聞いて、実際の鳥の声や波音との違いを指摘する人はまずいません。

私は長いことこの人工的な音の中で音楽を追求しながら確信したことがあります。それは音楽の本質は決して耳には聞こえないということです。

もし音だけを聞くなら、大自然こそが世界最高のオーケストラであり、たとえば早朝の熱帯雨林で聞く命のざわめきは、完ぺきで無欠のアンサンブルです。でも、決して音楽ではありません。

また、オーケストラのスコアを正しい奏法で完ぺきに奏でたところで、よい演奏になるとも限りません。

では、よい演奏に何が必要なのか。名演奏と語り継がれるものには何が宿っていたのか。私はそのかけらを必死で探しながら、人工音しか出すことのできない機械と向き合っています。

そして、私がエレクトーンを愛する最大の理由は、孤独が好きだからです。交響的な作品が好きで、かつ孤独を求めるなら、エレクトーンに勝る楽器はありません。

これまでも、これからも、私はどこにも属さず、何にも縛られず、自由気ままに。音楽と一緒に。そして、エレクトーンと一緒に。

今日は誕生日。3年と少し毎日欠かさず続けたブログも、今日で一区切りです。特別なことがある時には、時折更新するかもしれません。長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。