広島の次は三重へと向かいました。途中、名古屋駅で東京から来る両親をホームで出迎え、近鉄特急で四日市を目指します。広島駅も名古屋駅も、ホームが歩きにくいほどの混雑。外国からの旅人が目立ちますが、それもそのはず、月にでも行くのかというほどの大荷物の人ばかり。邦人の我々の方が肩身が狭い時代です。
名古屋駅で新幹線から近鉄電車に乗り換えるのは、わかりにくいことで有名です。しかも、階段を下りなければならず、足の悪い母にとっては地獄の門。ところが、その階段を清掃していた係員が親切で、苦労して一段ずつ下りる母に声を掛けて、手伝ってくれたのです。名古屋の印象がぐんと上がりました。
四日市までは、あっという間の乗車でした。姫路の太田垣さんが「お母さんたち心配やから行くわ」と名乗りでて、駅のエレベータ位置まで事前に調べておいてくれたり、駅からホテルは目と鼻の先にも関わらず車を出してくれるなど、超VIP待遇。おかげで無事にホテルへチェックインできました。
さて、三重は津でコンサートなのに、なぜに四日市か。実は父が子どものころ、1年足らずの期間、四日市に住んでいたとのことで、思い出の地を訪ねたいとの願いを叶えるために途中下車したのです。
父の小学生時代は、まさに太平洋戦争の時で、疎開を含め16回の転校を経験したとか。それほどの頻度だったら記憶も曖昧ではないかと思いきや、いろいろなことを正確に覚えているから摩訶不思議。四日市で通った小学校の名前、父の父が勤務していた工場の場所、社宅の場所やそれが出来るまで住んでいた仮住まいの場所、学校までの通学路などをしっかり言えるので、思い出を辿るのは難しくありません。
ところが広島で精魂尽き果てた私は安静が必要で、父に付き合うのは厳しい状況です。ここでも太田垣さんが助け舟ならぬ助けカーを差し向けて、年寄り連れて思い出巡りに付き合ってくれました。おかげで私と母はホテルで静養できて大助かり。大満足の父が戻り、太田垣さんも一緒にホテル内の中国料理店で土産話を聞きながらの夕食を。すっかり家族に加わっていただき、感謝が尽きません。
翌る日はまた近鉄特急で津へ移動です。太田垣さんの車にはエレクトーンが積まれており、人間はもう乗れません。父の思い出巡りの際は、ホテルの方にも手伝っていただき、エレクトーンを一度ロビーに降ろしていました。皆さんに数々のご面倒をお掛けしてばかりなのに、惜しみなく力を貸してくれるのが嬉しいです。
太田垣さんは、エレクトーンを積み込む前に「駅まで送るで」と言ってくれましたが、母もゆっくり休んで歩く元気が戻っていたので、駅まで散歩することに。そのかわり、大きな荷物はそのまま津まで車に積んでもらって楽々でした。
実際、ホテルから駅までは歩いてもあっという間でした。父は旅先の生鮮売り場を覗くのが大好き。現地の食卓の様子が垣間見れるのが楽しいのだとか。ちょうど近鉄百貨店があったので、魚屋を覗く父。放っておいたら生魚を買い込みそうな雰囲気だったので慌てて止めに入りました。
一方で、ふと目に入ったのがたこ焼き屋。私の鍼の先生が四日市出身で、施術の際に「学生のころ、駅の中にあるたこ焼き屋でしょっちゅう明石焼きを食べてた」という話を上の空でふんふんと聞いたのを突如思い出し、この店に違いないと一皿買い込んで、近鉄特急で広げてつまみました。
特急電車はちょうど伊勢志摩まで行く観光特急が来たので、半個室を利用。わずか20分の乗車ながら、ユニークな車内と志摩へ向かう人々の旅情と一皿の明石焼きが、特別なひとときを演出してくれました。
四日市の思い出巡りも実現して、いよいよ津に到着です。この続きはまた次回に。