何かに没頭している人を見ると、どこからともなく興味が湧いてきて観察したくなる。私には昔からそうした気質があり、さまざまな人に好奇心を掻き立てられてきました。惹かれるのはあくまで人。没頭している対象が何であれ、そこにはさほど目もくれず、なぜ夢中になっているのか、その精神性がどのようになっているのかを知りたくなるのです。
中井智彦さんの中也狂いは有名です。ここではあえて狂いと表現しますが、隣人には理解不能な愛が持続しているという意味で、中也好きとか中也に夢中では軽やか過ぎるからで、他意はありません。
私も若い頃に中也の詩をすべて読みました。ほとんど覚えていませんが、青春時代の心に少なからず影響を及ぼしました。今、同じ詩を読んでも、同じ言葉とは受け止められないほど、私自身は変わってしまいましたが、中井さんは不滅の新鮮さを保ち続けているから驚きです。そして長年蓄え温めててきた中也の世界に自らを投影し、歌とも芝居とも括れない舞台をひとりきりで考案しました。それを見た時、この原動力はいったいどこから?と不思議に思い、探って見たくなったのです。
そんな私の好奇心から舞台の一部を担うことになったのが、2年前。創作の手伝いをしていると言っても、感覚的には復元作業のようなもので、不可侵ともいうべき中井さんのライフワークに踏み込むのは、今なお躊躇が伴います。こうした創作ものがしっくりと肌に馴染むようになるまでは、何度も何度も練り直しを重ね、多くの実演を経験しなければなりません。
そこまで時間と労力を注ぐ価値があるのか。特に壁に当たってしまった時には、しばしば自問します。この中也に限らず、丁寧な仕事には手間と時間が掛かり、ビジネスという発想では決してバランスが取れません。編曲を伴えば少なくとも数百時間を要し、それは成人の1ヶ月の平均就労時間をはるかに超えます。
それだけ頑張って頑張ってやっても、興行的に成功とは言えなかったり、関係者にもお客様にもさほど喜んでいただけないことも少なくありません。
それでもやりたい気持ちが勝つのは、やったことのすべてが必ず自分の血肉になるという実感があるからです。それが誰かの価値でなくとも、他人にとって意味のないことでも、私には大切な足跡であり、生きた証。私はこれをやった!と自分自身に向かって大声で言ってやりたい。それがこの先の100年を生きる人のささやかなヒントにでもなれば最高なのですが、贅沢は言わないことですね。
今年も面倒で厄介な無理難題が、幾つも列をなして立ちはだかっています。単にやっつけるのではなく、美しくもエレガントな芸術に見せなければ負け。覚悟を決めて向き合います。
まずは中也狂いの中井智彦さんのコンセプトライブから。中井さんが神田将をどのように使いこなすのか。そのセンスと手腕に注目したいものです。