our ODYSSEY 7

悲願のリサイタル当日を迎えました。いつも通り5時には支度が整っていましたが、朝の稽古はせず、ぼうっと流れる雲を眺めて、できるだけ視野を広く保つよう心掛けます。きちんと朝食をとり、前夜に丁寧に手入れをしたコスチュームやシューズの状態を確認し、いざ出発。

会場入りは11時と指示されていました。それまでは照明などの準備時間に充てられ、エレクトーンの搬入も11時。でも、早く会場の空気に馴染みたくて、9時半には会場に到着。いつも必ず楽屋口で待ち構えて出迎えるアトムの姿はなく、冒頭から現実を突きつけられます。

楽屋は大ホール小ホールとも地下1階にあり、共通のエリアになっています。これまでは小ホール用のセクションでしたが、今日は大ホール用の広大なセクションが私のために開放されています。オペラやバレエ、管弦楽団などが裕に収まる多数の楽屋があり、舞台袖には出番待ちのサロンも。そのうち一番小さい部屋を選びました。ひとりで過ごすにはコンパクトな方が落ち着きます。

この日使うものを楽屋に整えて、早速今日のハウスを見て回ります。あちこちに掲げられている歴代公演の記念パネルは、私たちクラシック演奏家にとって、ルーブル以上の見応え。ひとつひとつに敬意を込めて挨拶しながらパワーを分けてもらいました。ホワイエではチラシの挟み込みや当日券の準備が慌ただしく進められています。第二のアトムであるマキさんも明るくテキパキと動き、私には楽しんでいるように見えて嬉しく思いました。

そしていよいよホールと対面です。どの会場に行くときも、最初にステージへと歩み、ホールと対面する瞬間を大切にしています。その瞬間、ホールが語り掛けてくるのです。若いホールは冷たい印象だったり、雑に使われているホールは出演者を拒絶する表情を見せることもあります。

まだエレクトーンがなく、照明準備が進められているステージに、脇からそっと歩み出てみました。何というおおらかさ。この偉大な空間は私ごときを歓迎し微笑んでいるではありませんか。演奏する前から、聖地に辿り着いた巡礼者の心境です。一瞬で私の迷いは吹き飛びました。

11時に予定通りエレクトーンが搬入され、位置決めと接続の確認が行われました。今回はエレクトーンとスピーカーの直結で、すべてのコントロールは私の手中にあるため、サウンドチェックは必要ありません。この後リハーサルですが、ひとたび始まれば退館までまったく余裕がなくなるので、スタッフや遠方から手伝いに来てくれていた面々に挨拶を済ませました。

11時30分。松田理奈さんをステージに迎え、リハーサルが始まりました。松田さんはエレクトーンとの共演は初めてです。指向性のあるスピーカーから発音するものとのアンサンブルには慣れが必要なのですが、事前リハーサルの狭いスタジオでの感覚は、大ホールでは役に立ちません。戸惑いもあったでしょうに、持ち前の勘の良さですぐさま調子を掴み、心地よいアンサンブルに。ヴァイオリンソロ部分では美しい音色を存分に響かせ、トゥッティに重なる時はエレクトーンという陣を率いるジャンヌダルクのように悠然と、求めていた通りの演奏をしてくれました。

12時30分からはサイ・イエングアンさんとのリハーサル。いつもなら軽く声を出して終わりのサイさんが、丁寧に細部を詰めて行くことからも、このリサイタルに情熱を注いでくれていることが伝わりました。サイさんとの調整は開場時間ギリギリまで続き、いくつか生じた変更事項の確認が出来なかったこと、唯一の独奏曲を弾く時間がなかったことが心配でしたが、あとは腹をくくって本番に賭けるのみ。

定刻通りに開場した後も、舞台裏は慌ただしさが続きました。ほんの15分、いや5分でいい、ひとり静かに心を整理したい。それも叶わず、楽屋にはひっきりなしに確認の連絡が入り、リハーサルで順番が乱れた楽譜の整理もできないまま開演が近づいていきました。

急いで着替えるものの、慌てていると袖のカフスがうまく着けられません。そんなことにもたもたしているうちに心が乱れて行きます。ギリギリ楽譜を整え、深呼吸。楽屋を出る時にモヤモヤとイライラはすべて楽屋の中に置いて行く。その信条に従い、扉を出た瞬間には、希望に満ちた音楽家に変身していました。

舞台袖で私と松田さんを送り出すのは、舞台監督の野中さん。彼もまたアトムが信頼してチームに呼び込んだひとりで、演出のすべてを管理しています。いつもならここにアトムもいるのに。目を輝かせて「いい演奏を頼みます!」と送り出してくれるのに。でも、今日は客席で聞いてくれている。そう感じながらステージに進みました。

舞台で一礼してから松田さんをお招きし、お互いの準備が整ったところでGOサインを確認し合って、演奏開始。冒頭の低音トゥッティが大ホールいっぱいに鳴り響くと、まるで客席に誰もいないかのように息をのんで耳を澄ませてくれているお客様を感じ、お集まりの皆さまと同じ船に乗っている実感を得ました。

その先はもう最高に幸せな45分。途中、ヴァイオリン調弦の際にエレクトーンの設定を戻すのを忘れた痛恨のミスと、いささか勢い余って体力の限界を超えたところがありましたが、お客様は寛大に許容し盛大な拍手を送ってくださいました。演奏しながら、私はこれまで目にして来たどんな世界の絶景よりも美しいものを見ていましたが、その光景は今も心にくっきりと残っています。

15分の休憩ですることは、着替えと体力回復、そしてモチベーションの一新です。第1部を終え、リハーサルを含めすでに3時間のフルパワープレイを経ていますので、体力残量も厳しくなっています。着けるのにも手間取ったカフスは、手が痺れていて、なかなか外れません。もう半泣きです。何とか着替えが間に合い、急いで袖へ。

この後のサイさんとのステージに、第1部の消耗感を持ち込むのはとても失礼なこと。まるでこの日、初めて演奏するかのように新鮮な気持ちで臨まなければいけません。第1部が緊張感のある器楽の大作だったのとは対照的に、華やぎと気品のあるくつろいだ世界をお届けするのが第2部です。私が浮ついていたのでは話になりません。

持てる限りの精神力で平静を保ち、明るく朗らかに進み出た第2部。お客様はその意図をよく理解して、美味しいディナーの後のような、温かい雰囲気で会場を満たしてくださいました。サイさんの表情豊かな歌声と、舞台での洗練された存在感に、この場でひとときを共有する歓びを感じていただけたことと思います。

アンコールの赤とんぼをしみじみと味わっていただき、リサイタルODYSSEYは幕となりました。構想から約1000日掛けて迎えた本番までの道のりは、アトムと私の千夜一夜物語です。途中何度も挫折しましたが、アトムとその仲間が私を見守り励ましてくれました。そして、私にこのようなチャンスを与え、実現を支えてくれた東京労音に最大の感謝を捧げます。

なぜアトムと呼ばれるのか。奥様が教えてくれました。大学時代の恩師が「君は人を寄せ付けて離さない力がある」と言いアトムという呼び名を与えたのだそうです。「鉄腕アトムみたいに目がクリッとしてたからじゃない?」というウワサもありましたが、クリッとはしてないなぁ、それはガセだろうと思っていたので、奥様のお話に合点がいきました。原子の持つ結合エネルギーはまさにアトムの魔力に通ずるものがあり、ひとたび組み込まれればちょっとやそっとでは離れない強い絆を作ります。

そんなアトムに導かれて実現したリサイタルODYSSEY。大ホールは本当に素晴らしい体験でした。フルスロットルを余裕で受け入れ、繊細な表現を余すことなく伝えてくれる空間は、これまでのどのホールよりも弾きやすく快適でした。もう小ホールには戻れそうもないというのが、終わってみての悩みどころです。ねぇ、アトム、どうしたらいい?

〜おわり〜