リサイタルODYSSEYの構成はこのようにして決まり、シェヘラザードを共演してくれるヴァイオリニストの選出へと進みました。これまで管楽器奏者との関わりはそれなりに育んできましたが、ヴァイオリニスト、とりわけソリストとの共演経験が乏しい私には、弦の世界にいわゆるコネがありません。
そこで知人たちの交友をたどり、優秀なソリストを推薦してもらうことに。どの奏者も経歴、音楽性ともに申しぶんなく、許されるなら全員と共演してみたかったのですが、最終的に米津真浩さんが紹介してくれた松田理奈さんにお引き受けいただくことになりました。
当初、ヴァイオリニストには、管弦楽総譜にソロの指示がある部分と、ヴァイオリンがよく聞こえるところをメインに、幻影的存在として演奏してもらうイメージだったのですが、松田さんが演奏する姿を思い浮かべるうちにだんだん欲がでてきて、ほぼ全編で共演するスタイルに編曲し直すことに。ヴァイオリニストの負担は10倍以上に膨れましたが、松田さんが好奇心と探究心を持って受け入れてくれたことで、ふたりシェヘラザードはさらに面白いことになっていったのです。
エレクトーンはさまざまな音色を出すことができますが、それぞれの音色で可能な表現範囲は狭く限られており、作品が求めるニュアンスをまったくもってカバーできない歯痒さを常に抱えています。特に弦楽器のザラザラとしたテクスチャーやふくよかな光沢感が出しにくく、立ち上がりに関しては壊滅的です。また、ビブラートやポルタメントも不自然極まりないので、いっそ使わないことが多いほどです。
しかし、そこに一本のヴァイオリンが加わるだけで、表情が劇的に変化するのではないか。そんな期待を感じ始め、大ホールで壮大な実験をしてみたくなりました。エレクトーンがトゥッティを鳴らせば、一本のヴァイオリンは音量的には埋もれてしまうでしょう。でもそれは聞こえなくなるのではなく、溶け込んだ結果と捉えるべきであり、立ち上がりから減衰までの間、エレクトーンの機械的な発音に、絶え間なく生々しい命を宿すに違いないと推測しました。
この編曲に際して、エレクトーンパートには極めて緻密な工夫を散りばめましたが、ヴァイオリンパートにはほとんど手を加えませんでした。まるで作曲家は未来におけるエレクトーンとの共演を予測して書いたのではないかと信じたくなるほどに、余計な作為を施さなくても作品の持ち味を雄弁に語れることを、この偉大な作品からも学びました。
一方、この試みを松田さんにどう伝えるかには神経を使いました。じゅうぶんな信頼を得てからならまだしも、よく知らないエレクトーン奏者から、あなたの音はところどころ掻き消されて聞こえなくなりますなどと言われたら気分が悪いでしょう。通常、それは無神経で敬意に欠いた行為の結果と解釈されますので、丁寧な説明で理解してもらおうとしましたが、松田さんはすぐさま意図を汲み取ってくれたのです。
編曲した総譜が完成し、松田さんへお送りすると、すぐに全体を見渡して、記譜ミスの指摘や、疑問点の質問を寄せてくれたことからも、誠実さが伝わってきました。あとはリハーサルを待つのみ。合わせる日を指折り数えながら自分のパートを弾きこんでいる頃、チラシが仕上がり、追ってチケット販売もスタート。こうして順調に準備が進んでいるところに、パンデミックの足音が不気味に響き始めたのでした。
〜続く〜