姫路での公演を終え、すぐさま楽屋を片付けて名残惜しく帰京。この公演を見に来てくれた両親とは1ヶ月ぶりに顔を合わせたので、元気なところを見せたかったのに、「疲れているんだから、静かにしてやろう」と気遣わせてしまい、結局、新幹線でも会話ないまま、私は事務仕事。でも、舞台を見てもらえて、それを楽しんでくれた様子が感じられたので、やっと自信を持つことができました。
慌てて姫路を後にした理由はただひとつ。6日後の和歌山での公演に備えるためです。7月の演奏会はわずか4回ですが、新規に演奏する曲目が多数あり、準備に時間を要しました。4ヶ月間、毎日17時間を注いでコツコツ仕込んで来たものの、まだまだ一瞬たりとも無駄に出来ない立場にあり、新幹線が東京に着くまでに頭を切り替えて、帰宅次第すぐに取り掛かるつもりだったのです。
ところが、自室に着き、シャワーで整髪料を落とそうにも、もう腕が頭まで上がりません。諦めて、濡れた髪のままベッドへ這い、犬のように体を丸めて横たわるものの、頭だけは冴えているので、不安で冷や汗が噴き出してきます。そのまま朝を迎え、パパイヤ鈴木かと見紛うヘアで、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を弾き始めました。
この名曲のにくいところは、感情をモロに刺激することです。音楽に寄ると心が崩れそうだったので、細かい音の調整や運指の工夫などをして、気を逸らします。更に2曲、準備が未完成の作品があったので、イメージを膨らませようとするのですが、発想が鈍くダメな案しか出てきません。そんなペースで30時間が過ぎてしまいました。
気がつけばヴァイオリニストとの初合わせ前夜。「明日までに返す約束の金が用意できない」。まるでそんな罪悪感と無力感の中、「1円でもかき集める」つもりでエレクトーンに向かいます。
今回、ご縁をいただき初共演するヴァイオリニストは、寺下真理子さん。親交の深いピアニスト米津真浩さんとの共演機会が多い寺下さんには、以前から注目していました。昨年末には寺下さんのリサイタルを客席で鑑賞し、エネルギッシュな中に光陰のコントラストが自在に映し出された意欲的な演奏に、たいへん満足して会場を後にしたことも鮮明な思い出です。
その時は、まだ今回の公演が決まっていなかったので、後日改めて寺下さんがお相手と聞いた時は、とても嬉しく思いました。同時に、若々しく感性豊かなアーティストに、私のようなジジイじゃ申し訳ないのではと、妙な引け目を感じたのも事実です。
リハーサルに臨むにあたり、おそらく寺下さんはこのようなテンポと表現を求めるだろうと、ある程度、的を絞った構えをして行きました。改めて自己紹介をし、初めての直接会話で気分を和ませたところで、早速の合わせ稽古。私が想像していたのとは、いい意味で大きく異なる音楽でもって迫り来る寺下さん。自分が抑えていたものも解き放つことが可能となり、たちまち打ち解けていいアンサンブルができたのです。なんとか「金を返せる」目処がつき、帰京して初めて生きた心地がしました。
それから2日間、やっと体力が戻り意欲も絶好調になって、残っていた2曲の仕込みもトントン拍子でフィニッシュ。やはり、インスピレーションは絶対に欠かせないと痛感しました。
仕込みに最後まで迷っていたのは、メジャーデビューも果たしている人気尺八奏者・辻本好美さんのオリジナル作品「シンクロニシティ」。あらかじめ送ってもらっていたのは、旋律とコードが記されたシンプルな楽譜のみ。こう弾いてくれ、こんなイメージです、テンポはこうです、など一切なし。辻本さんは、会ったこともない私にすべてを委ねてくれた。この一段譜だけを頼りに、辻本さんが求める背景を築き、息の合ったアンサンブルを完成させるのが私の仕事になりました。
何よりリスキーなのは、辻本さんとは公演前日が初対面で、わずか1時間のリハーサルしかないことです。つまりそこで何か問題があれば、非常に困ったことになるでしょう。でも、心配があるとすれば作者ご本人でしょうし、どうにでもなるゆとりと自信があるからこそ、太っ腹に任せてくれたはずですので、私は最善を尽くします。
こうした仕込みは、ギリギリまで待ちます。少しずつ積み上げるとイメージがブレやすいので、方針を固めて一気に仕上げる方がしっくりきます。尺八ならではの伝統的な味わいが潜む、現代的でビート感のある作品ですので、あえて楽譜に書き起こさず、即興的なニュアンスで行くことにしました。本来ならフルPAの音響が効果的ですが、他はすべてクラシック作品なので、どうバランスを取るかが当日の課題です。
もうひとりの共演者は、ピアニストの宮井愛子さん。宮井さんとは以前にも共演していますし、家族ぐるみのお付き合い。ラプソディ・イン・ブルーは、私がピアノパートと管弦楽パートどちらでも担当できる作品ですからリラックスして演奏できそうですが、舐めて掛かれば思わぬ事故になりますので、それなりに時間を割いて見直しました。
そして最大の難関は、フォーレ「レクイエム」。こちらは5月には仕上げてあったので、だいぶ体にも馴染んでいました。でも、その慣れは、レクイエムのみを演奏する催しなら有効ですが、今回はレクイエムの門をくぐる前に、いくつもの関所を無事通過しなければなりません。これは想像以上に恐ろしい旅路です。
ガーシュインやメンデルスゾーンを弾いている時、フォーレの世界はまったくどこにも見えません。ましてや、姫路ミュージカルの余韻も残り、尺八との現代的なセッションの直後、15分でレクイエムというのは、何度イメージトレーニングでシミュレーションしてもアウトなのです。休憩の15分、祈祷室で瞑想でもできればいいのですが、着替えたり、段取り確認などしていれば、まったくもって現実的なドタバタの中で幕が開くことでしょう。もはや、この件に関しては打つ手がなく、まさに祈るしかありませんでした。
そんな不確定要素満載で、和歌山への旅が始まりました。午前3時に起き、早朝便で関空を経由し、朝9時には和歌山の練習会場へと到着。全身緊張の私を優しく受け入れてくれたのは、私がかつて唯一定期的なレッスンを持っていたヤマハ音楽教室の先生方とスタッフたちでした。それがどれほど安心と自信に繋がったか知れません。
午後からは3人のソリストたちと代わる代わるリハーサルを。辻本さんとの初合わせも、意気投合して問題なく終えられ、ホッとしました。一通りの目処が立ち、主催者との綿密な打ち合わせを経て、和歌山レッスンの定宿だったホテルにチェックイン。明日の公演がうまくいきますようにと、「777」号室を用意してくれました。部屋からの眺めは、知らないうちに大きなマンションが建ったりして変化していましたが、和歌山の皆さんの思いやりは以前と同じです。
本番当日。久しぶりの気持ちのいい晴天です。8時半に会場入り。ステージはピアノ調律中ですので、エレクトーンを舞台袖に置いてもらい、ヘッドホンで一通り弾いておきます。だんだんと出演者やスタッフが集まってホールが活気付き、10時半から予定通り通しリハーサルがスタートしました。スピーカーの位置や向きなどを工夫しながら、響きとバランスを整えるのですが、舞台でエレクトーンと合わせる経験が少ない、または初めての共演者には、弾きにくい部分もあることでしょう。皆さん、ご自身の意見ははっきり言ってくれるのでこちらも調整しやすいですし、環境に慣れるのが早くてさすがでした。
そして、そのままフォーレのリハーサルに突入。今回、斉藤言子さん、米田哲二さんというベテランのソリストおふたりが加わってくださり、一気に風格が増しましたが、この大御所おふたりとも私はこの日が初対面でした。エレクトーンとの初共演をお引き受けいただき、とても光栄です。なんの打ち合わせもなく、いきなり通して合わせたので、いささか緊張もありましたが、ここまで来たらもう弾き続けるのみ。なんとか本番への構えが整いました。
この時点で開場時間を少し押していましたので、慌ててステージを第1部に転換して開場。いくつか修正したい部分があったのですが、もうエレクトーンに触れることはできません。
フォーレでの微細な問題点を指揮者との会話で解決し、第1部のトークの内容についてすり合わせをしていたら、そろそろ着替えないと間に合いませんよと声が掛かりました。
確かにタキシードだと間に合いそうもなく、予備のスーツを着ることに。舞台袖で最初のソリストの宮井さんを出迎え、程なく出番です。ここから先はもう考えません。いえ、考えたらダメなのです。きちんと準備できてさえいれば、考えずとも進んでいけるのです。でも、わずかな隙間から水は漏れ出します。それを何とかしようと頭を使います。これがよろしくないスパイラルの始まりです。大きな事故こそありませんでしたが、集中力が欠けている自分が何とも情けなくなりました。
一方でソリストたちはお見事でした。宮井さんはブラン・ドゥ・ブランのシャンパン、寺下さんはボルドーのプルミエ・クリュ、辻本さんは日本酒というよりペンフォールズのグランジかという衝撃。伝統音楽を奏でる時は限りなく無の境地に、オリジナル曲では思い切り楽しむという辻本さんの言葉が印象的でした。
第1部を何とか乗り切り、やっと目的地であるフォーレの景色が見えて来ました。覚悟は決まっているものの、その頂は今なお高く聳えています。技術で突き進む作品とは対極にあって、異次元の集中力と精神性が求められるこの作品を扱うのは、音楽家より僧侶や聖職者の方がふさわしいのかもしれません。当のフォーレにそんな硬い発想はなく、もっと人間的で親密なところにあるレクイエムを書いたと言うような気がしますが、作品が世を生き延びる過程で数々の名演が歴史を刻むうちに、フォーレが思いもよらなかった神性を帯びたようにも感じられます。とにもかくにも、私は未熟過ぎました。
アンコールを終えて幕となり、振り返るとコーラスチームに笑顔が溢れていました。それぞれに思いを持ってやり遂げたステージです。ここに至るまでの道のりを思えば、大きな達成感があったことでしょう。そんなメンバーに盛大な拍手を送ります。
また合唱指導と指揮をされた高瀬先生が、気持ちのよいリーダーシップを発揮され、持ち前の明るさで公演を成功に導きました。一番不安だったのは私ではなく、高瀬先生だったろうと思いますが、よく最後までお付き合いくださいました。
数々の共時性に導かれた今回の公演。異なる発端が手繰り寄せられ、大きなターミナル駅のように集結する様子は、運命的でもあり不思議でもあります。まさしくシンクロニシティな演奏会でした。