6月1日は、横浜関内ホールにて、横浜オペラ第4回公演が開催されました。日本のオペラ発祥の地といわれている横浜に、オペラの文化を根付かせたいとの願いを込め、横浜とオペラをこよなく愛するマダムが率いる舞台に、エレクトーンによるオーケストラ担当として、私も参加させていただきました。
いまをときめく旬のソリストたちが顔を揃え、それぞれが得意とするオペラアリアの名曲選と、ヴェルディの傑作「ドン・カルロ」のハイライトをやると聞いた時から、これは大成功間違いなしと確信。自分が切符を買って聞きたいと思ったほどです。
実際、公演本番のパフォーマンスは素晴らしいものでした。ソリストそれぞれが圧倒的な存在感でお客様を惹き付け、満場の客席からは物音ひとつしないどころか、すべてのお客様が息を殺して観賞してくださいました。その空気が更に歌手たちを熱くさせ、名演と呼べる瞬間を次々に生み出していったのです。
私は脇でエレクトーンを弾きながら、この舞台を支えている歓びを噛み締めていた、と言いたいところですが、演奏中の脳は悦に浸る回路も緊張や弱気を感じる回路も、すべてを演奏そのものに転用するので、演奏中、神田将という人間は休眠していると言うのが正しいかもしれません。実際、演奏中に起こったことはすべて記憶しているのに、なんの感情も思い出せず、終わった今になって状況を結合させ、すごかったなぁとしみじみ思っているところです。
当日までの道のりは、本当に険しかった。やはり、これは私ではなく、オペラ弾きがやるべきと、何度も降板を考えました。
一番きつかったのは、初めて手掛ける「ドン・カルロ」を編曲するために確保していた7日間のほとんど、体調不良で起き上がることも出来ず、時間だけが虚しく過ぎていったときです。
遅れを取り戻すために犠牲になるのは家族との時間。闘病中の叔母に付いていてやれないこと、私には唯一の憩いである両親との会食を何度もキャンセルしたことなど、焦りは次第に罪悪感へと変わりました。
やっと編曲を終え、レジストレーション(エレクトーン演奏用の音色組み合わせデータ)が完成したのは文化堂コンサートの前日。コンサートを終え、スケジュールを一部キャンセルして帰京し、翌日から歌手たちとの稽古。夜通し弾きましたが、自分が弾くのがやっとです。
このような状態では、歌手の信頼を得ることは出来ないので、稽古に行くのに気後れしました。それでも、稽古場に入れば、やるべきことを誠心誠意やる以外にありません。
でも、稽古が終わる頃には、私の気持ちは晴れていました。本当に痛々しい哀れな演奏に、文句も言わず付き合ってくれた歌手たち。ちゃんと必要なコミュニケーションを取ってくれたし、私が本番までに何をすべきかも明確にわかりました。そして、ある程度の勝算を持って帰宅することができたのです。あとはひたすら練習して追い上げていきました。
この公演に投じた時間は、のべ22日間。編曲など演奏準備に10日間。自分の練習に4日間。歌手との稽古が5日間。そして、会場での稽古と本番とで3日間。
練習や稽古の合間にも、舞台関係の打ち合わせや、進行表の作成など、必要な作業が次々と出て来ます。現場に入ってからは、私がタイムキーパーをやらせてもらいました。これで演奏がなければ、私は優秀な舞台監督なのですが、私が弾かなければ始まりませんので、サポートをしてくれるスタッフ3人に協力してもらい、なんとかステージを滞りなく進行させることができました。
何もかもがユニークな催しでしたので、ホールスタッフの皆さんも最初は戸惑っていましたが、たいへん好意的に協力していただき、最後にはいいチームワークになったと思います。
私の演奏には満足できませんでしたし、せっかく工夫した部分が意味をなさなかったところもあり、悔しさも残ります。
でも、私の役割はある程度果たせました。オペラは音楽であり、歌手がことばで歌いかける心情に対し、オーケストラが背景を描いたり、次に起こることを暗示したり、時には声に寄り添って響きあったりしながら、お客様の心に心情と風景を構築しなければなりません。
私はドン・カルロを極上のロマンスとして皆さまにお届けしたいと考えました。それを言葉で伝えたことは一度もないのに、歌手たちから沸き上がる色香と人間くささが、私のイメージを見事に具現化し、叶わぬ想いにも希望があると示してくれたことに、奇跡とともに必然を感じます。