1999.03.06
旅先の我が家
パレスオンザヒル沖縄 Executive Suite
楽-4久しぶりの沖縄に飛んだ。最終便で23時近くに那覇に着き、しっとりとした雨の中タクシーでホテルに向かう。那覇の高級住宅街を抱えた丘の上に建つ、小ぢんまりとしたホテルがパレスオンザヒルだ。12年前にリージェント沖縄としてオープンしたが、2年後にリージェントが撤退し、全日空が後を引き継いだ。ぼくはリージェントの時代から数えれば、もうすでに100泊以上しているだろう。正直言って他の那覇市内のホテルのことはほとんど知らない。いつでもパレスオンザヒルだ。
ぼくがはじめてリージェント沖縄に宿泊した時、日本にこんなものすごいホテルが出来たのかと、度肝を抜かれた覚えがある。空港にリムジンが迎えに来て、ホテルに着くなりカッコいいドアマンとベルマンが何人も寄ってきて、ドアを開け「リージェント沖縄へようこそ!」と迎えてくれる。自分が車を運転して到着する時でも、バレーパーキングをしてくれるから、つい最近まで駐車場の場所を知らなかった。
荷物は直ぐに部屋へ運ばれ、チェックインはフロントカウンターでなく、直接部屋へ案内された後、ウェルカムドリンクとフルーツを楽しみながらリビングで行うというものだった。総大理石の広々としたバスルームには斜めに配置された大型のバスタブと、客室越しに海を眺められる開閉式のルーバーや扉のない開放的なシャワーブースがあるし、ウォークインクロゼット、テレビを収納するアーモアも国内では珍しく、シンプルなデザインのインテリアと共に、新鮮な驚きだった。
当時、ニューオータニあたりの客室でさえ、ユニットバスやポーションのシャンプーに薄い壁など、今のビジネスホテルのスタンダードにさえ及ばない設備だったと記憶している。その時代に100グラムの石鹸やバスローブを備え、当たり前のようにターンダウンをするホテルは奇跡だった。
ルームサービスで朝食を頼むと女性スタッフが3人でやってきて、トーストを焼きながら「昨晩はよくお休みになれましたか?」「今日はよいお天気ですので、海がきれいに見えますね」といった具合に声を掛けてくれる。その間、一人はバスルームの簡単な清掃をして、タオルをすべて替えてくれるという徹底ぶりだった。
レストランでの朝食もそれに劣らず魅力的だった。真っ白くて柔らかなテーブルクロスとナプキンに、真っ白なボーンチャイナがビシっと並んだテーブルに掛けると、まずフルーツとチーズが運ばれ、それをつまみながらメニューを考える。朝と昼は全員女性従業員。逆にディナータイムには男性しかいない。日中は快適なフライトのような女性ならではのくつろいだサービス、夜は高級感のあるグランメゾン的なサービスを楽しめた。
小さなホテルだから、レストランは和洋各1店舗しかない。したがってフルコースでゴージャスに食事をしたい人も、軽食で済ませたい人も同じ店を利用することになる。ぼくらが食後酒にシャトーディケムをなめていると同時に、近くの席でパイコー麺をすすっているという光景もよくあったが、それが気にならないような配慮がサービス陣にあった。
食事を終えて部屋に戻る途中、エレベータを降りるとホールに夕刊とリンゴやチョコレートが置かれており、自由にいただける。ささやかなサービスだが演出効果は大きかった。さらにベッドサイドにはチョコレート、シャンパン、ミネラルウォーターが用意されており、至れり尽くせりだった。滞在中の用事はすべてバトラーが引き受けてくれる。最近はやりの名ばかりのバトラーや、電話のボタンを一つに集約したシステム上だけでのバトラーとは違って、本物のバトラーだった。
ぼくが滞在中に風邪を引いてしまった時、「うえのや」という日本料理レストランの料理長が作ってくれた粥とおかずのおいしさ、近所のお医者様が処方してくれた薬で自分が風邪を引いた時によく効くからと持ってきてくれた従業員の親切など、このホテルで感銘を受けたことを挙げればきりがない。
でも、実際には言葉で表現できないような、いいホテルだという以前にいい空間だと思わせるなにかが全館に漂っていた。また、従業員ひとりひとりが実に生き生きと仕事を楽しんでいるから、とにかくカッコいい。見ているだけでこっちも元気一杯になれた。
ことごとく過去形で表現してしまったが、全日空ホテルになって10年、なにもかもが失われたわけではない。確かに独特のサービスはほとんどが無くなってしまった。客層も極端に変わってしまった。車寄せには大型バスが出入りし、早朝からピーピーとけたたましい笛の音を容赦なく撒き散らしている。かつてコーヒー豆はハワイコナを使っていれていたので、「今でも『コナ』を使っているんですか?」と尋ねたら「ハイ、ちゃんと粉から入れてます」と答えられた。まさか、インスタントだとは思ってないのに。
その他にも、メンテナンスに力をいれていないのか、あちこちボロボロだし、拭けば落ちるような汚れでも見過ごされているようだ。本当に気持ちのよい演奏を聞かせてくれていたピアニストのおじさんは昨年辞めてしまって、今は味気ない自動演奏。
客室にはクッションのブルーより濃い色のものはなかったのに、アーモアに上には有料放送の機械と下品なプログラム表が乗っかってしまったし、レストラン等のチラシが数多く置かれ、それが目に入るだけで疲れてしまう。しかし、客室に入った時に感じるこのホテルの「かおり」は変わっていないし、リムジンの運転手さんは昔のまま。パイコー麺の味もそう変わっていない。
空港からこのホテルに向かいながら、丘を上がる坂から電灯の点る客室を見上げる時のときめきはいつまでも変わらないだろう。現状を見ているのは、開発が進んで昔の面影をなくしつつある故郷で、想い出と結びつく風景を必死に探しているような心境だ。
今回の旅は、このホテルに開業以来お勤めの翁長はるみさんが昨年お母様をなくし、故人を偲ぶための集まりをするのでぜひ演奏をして欲しいと手紙を下さったので、二つ返事でお引き受けした。深夜にチェックインし、ぼくと同じくらい「お疲れ」のフロント係から鍵を受け取り、自分で重い荷物を部屋に運び、熱いシャワーを浴びてすぐ睡眠。
翌朝、紙ナプキンを膝に掛け、入れてから時間の経ったコーヒーとともに朝食。その後、会場に向かう。車で30分ほどの宜野湾にある教会で行われたその集まりは実に素晴らしかった。参加した人々の気持ちが見事に溶け合い、深い感動を呼んだ。ロマンチストだった故人翁長文子さんが好きだったという曲を30分ほど演奏したが、演奏に託した気持ちが参加した人々の心をめぐり、より強力になってフィードバックしてくるという体験をした。
演奏を終え、はるみさんは「夢が一つ叶いました」と言ってくれた。彼女のようなひたむきな気持ちの持ち主がこのホテルを支えて来たんだろう。これからも沖縄へ出向く時は迷わずこのホテルに泊まるつもりだ。
Y.K.